夢子の地球大好きシリーズ
モロッコ陽炎ゆらゆら パート1

成田から都心に向かう車の中から、沈む夕陽を眺めていた。傾くに従い急速に輝きと力を失っ
て、正視してもそれ程眩しくもない。長旅で纏わりついた汗や疲れを不快に感じながら身を動か
した時、ふと気がついたのだ。千葉県でぼんやりと沈みかけているあの太陽は、数日前メルズー
ガの砂漠で日の出を見た同じ太陽なのだと。メルズーガは、アルジェリアのサハラ砂漠に続くモ
ロッコの南の国境に近い街。当り前じゃないか。太陽も月も地球も一つだ。頭ではわかっていて
も、驚きだった。そして混乱している。砂漠の向こうから静かにスッと昇った太陽と、今見てい
る太陽が同じとは思えない。今戻って来た国モロッコは、いろんな色をキャンバス一面に塗りた
くったような実に不思議な国だった。
地形のデパート「モロッコ」
出掛ける前、電話を貰った。イタリアの旅でご一緒して以来、何かと連絡を取り合っている添
乗員のAさん。「モロッコに行かれるの? モロッコは面白いわよ。ムチャクチャ面白い、ひと
ことであの国を表現するとコントラストの国と言うらしいわよ。」

「ヨーロッパの果て、アフリカの始まり」と言われるモロッコ。アフリカ大陸の最北西端に位
置する。北は地中海、西は大西洋、東と南はプレサハラを経てサハラ砂漠に続く。そして国の背
骨のように、3000メートル〜4000メートル級の高山が連なる複数の山脈。大西洋側から
吹く湿気を帯びた風も、南西のサハラから吹き付ける熱風も、中心の山脈で遮られ、この地形が
もたらす気候は、地域によって全く違うことになる。海側は肥沃な緑なす平野、逆にアトラス山
脈の東南側のプレサハラ側は、乾燥して暑く不毛の地だ。もちろんアトラス山脈は高地だから気
温は低い。マラケシュなどの内陸では日中はとても暑い。地中海沿岸、大西洋沿岸、内陸高原、
山岳地帯、砂漠地帯と大きく5つの気候があり、四季でも気候は変化し、その上一日の気温差も
激しい。
そんな国を小さな円を描くように、8泊9日でぐる〜っと廻ったのだから、暑い、寒い、暑い、
寒い、暑いと存分に味わった。カサブランカから首都ラバト、ワインの産地メクネス、フェズま
での道のり、そしてマラケシュから再びカサブランカに至る地帯は、豊かな穀倉地帯で、緑の畑
や鮮やかな花々が咲き乱れる。特にラバトからフェズまでの高速道路の両脇には、地形がうねる
ような緩やかな傾斜地に赤や黄色、ピンクなどの花畑と草原が続き、まるで北海道・美瑛のラベ
ンダー畑を100倍にしたような景色だった。フェズから南に向かって丘をどんどん登っていく。
モロッコのスイスと呼ばれる涼しげな夏の避暑地「イフラン」は海抜1650メートル。そこか
ら少し下ると何千年も前から生い茂るアトラス・シーダの森となる。ヒマラヤ杉の一種で、かつ
てはエジプトのミイラの棺桶に珍重され、今でも高級家具や建材に使われ、中には樹齢数百年の
木もある。ポプラの木もあり、この当たりは積雪地帯で、道路の両脇には積雪時の目印が立って
いた。牧草地が続き、遊牧民のベントが所々に見え、羊の放牧の風景が広がる。再び登った一番
の高所のZADザド峠は2178メートル。この後も登りと下りを繰り返し、白樺の木があった
かと思えば、ミデルト周辺はりんごや無花果などの果物の畑が続く。やがてステップ地域に入り、
地層の隆起で出来上がったアメリカの中西部のような風景が出現する。今にも向こうの山の頂き
から狼煙が見えそうだ。そして砂漠地域に。砂漠と言っても、普通イメージする砂砂漠の他に礫
(れき)砂漠、岩砂漠、土砂漠があって年間の雨量は100ミリに満たない。干上がった川があ
り、それでもところどころにオアシスがあって、本来のオアシスの意味を実感する。アルジェリ
アの国境近くはプレサハラ地帯。これでやっと半周。ここまででも十分なコントラストがある。

青麦や大西洋の風に揺れ
モロッコはどんな国?

モロッコは、チェニジア、アルジェリアと並んで「マグレブ3カ国」と呼ばれる。いずれもアフリカ大陸の
北西部にあり、マグレブとは「陽が沈む国」という意味らしい。モロッコの歴史を、叱られる位簡単にまとめ
ると、「紀元前5千年くらいに、どこからかベルベル人がやって来て、この地に住み始める。紀元前1100
年頃、フェニキア人が来て、以来ローマ帝国の支配を受ける。7世紀頃、アラブ人が東から流入し、じわ
じわと数百年かけてアラブ語やイスラム教の浸透が進む。8世紀終り〜10世紀、初のイスラムのイドリー
ス朝がフェズに王国を建設。11〜12世紀、ベルベル人がとって替わってムラービト帝国。首都マラケシ
ュ。スペインを支配。12〜13世紀、同じくベルベル人のムワッヒド帝国。スペインのセビーリアを副都とし
て、スペイン国内にイスラム文化が繁栄する。13〜15世紀に、これもベルベル人のマリーン朝をフェズ
に建設。16〜17世紀ここからまたアラブ人に政権が移り、シャリーフ(ムハマンドの血統)を名乗るサー
ド朝がマラケシュに建国。17世紀〜現王朝のアラウィー朝がメクネスとフェズに都を建設。シャリーフ崇
拝が広まった。1912年にはフランスの植民地化・保護領となり、ラバトに遷都。フランス語教育が始まる。
1956年フランスから独立し、追放されていたムハンマドX世が帰還し統治する。1961年ハッサンU世
の時代。1999年ハッサンU世死去し、現在のムハンマドY世即位。」ということになるのだが、近年の出
来事でいえば、1975年、西サハラを領地だと主張して、ポリサリオ戦線と武力衝突したり、イスラム原理
主義を恐れて、1994年以来アルジェリアと国交断絶したりで、周辺国との火種はくすぶっている。「大モ
ロッコ帝国」の幻影は未だ強いようで、西サハラをモロッコの領土としていない地図を収録したガイドブッ
クを持っていると、空港で入国拒否にあったこともあったそうだ。国境付近には、今も地雷が埋められて
いるというから「モロッコはステキだ」なんて、勉強もしないで手放しで誉める訳にも行かない。モロッコで
は、政治や国王の話はご法度らしく、「今日のモロッコ」は、この目で見たものしか把握できない。

ラバトの王宮 フェズの王宮 マラケシュの王宮のパティオ
モロッコという国名は、フランス語、英語の表現で、アラブ語で正確に言うと「アル・マムラカ・トゥル・マ
グリビーヤ」って言うのですって。「西方の王国」という意味だそうです。モロッコの名は、何度も首都にな
ったマラケシュから来ているらしい。モロッコの住人で一番多いのはベルベル人。モノの本によって違う
が4割から6割。他はアラブ人と少しのフランス人、ユダヤ人。ベルベルの意味はギリシャ語で「ヘンな言
葉を話す人」ということらしい。言葉は、アラビア語とフランス語とベルベル語が通用し、公用語はアラビ
ア語である。しかし、ベルベル人とアラブ人、アラビア語とベルベル語の見分けは両方とも全くつきませ
んでした。そしてここはイスラムの国である。初めて体験するイスラム圏だったので、興味津々だったが、
予想よりそれは強いものだった。「アザーン」という夜明けから日に5回行われる祈りの声。エジプトやトル
コではテープのアザーンを使っているが、モロッコは全部ライブ生の人声だとマラケシュの現地ガイドが
威張る。ふとバスの中から見ると、崖の上でも東を向いて祈る姿。アメリカ系の5つ星ホテルの中庭にも
絨毯が敷かれた祈りのテントが設置されている。カサブランカは例外として、大きな街で一番高く立派な
建物は、もちろんモスクとミナレットである。年に1ヶ月ラマダンの断食。豚肉は食べない。酒も飲まない。
イスラムでは預言者ムハンマド(マホメット)の子孫はシャリーフ(サイイドとも)と呼ばれて特別な尊敬を集
めるが、サード王朝、現在のアラウィー王朝もシャリーフ王朝。シャリーフは、全能の神アッラーから神聖
な力バラカを授けられる。よって、アラウィー王朝とシャリーフ王朝の王(サルタン)は、政権とイスラムの
最高聖者を兼ね備えた存在となった。民家の扉には、ムハマンドの4女ファティマの手を象ったドアノッ
ガーの御守り。一番飲まれている水シディ・アリのシディも聖者の名前。敬虔なイスラム教徒は、街を歩
いていても貧しき者の手にそっと金を渡して喜捨をする。上から下まで、朝から晩まで、行住坐臥すべて
がイスラムの教えによって回っている。
マラケシュのクトゥビアのミナレット メクネスのムーレイ・イスマイル廟
私たちが鮨屋で食べているタコやイカには、このモロッコの沖合で捕れるものが多く含まれている。鰯
の水揚げが最も多く、鮪も多い。鰯の缶詰の加工業も含めて、漁業は沿岸地域の重要な産業だ。北西
部や内陸部では、商業と並んで、柑橘類、ワインなどの輸出品を含めて農業が盛ん。また、プレートテク
トニクス運動の結果出来上がったモロッコの大地は、化石や鉱物の資源を豊富に含んでいる。南の砂
漠地方に行くと、「砂漠のバラ」と呼ばれる硫酸カルシウムの石膏やアンモナイト、オウムガイなどの化石
の店が多い。リン、鉄、マンガン、銀などが豊富で、中でもリン鉱石は、世界第3位の埋蔵量。日本にも
輸出している。牧畜、林業が盛んなのは山岳地帯。しかし、人口約二千八百万人のうち三分の一は、多
くの人手が必要な刺繍や絨毯、皮革製品、衣服などの手工業の生産と仲買、販売などに従事してい
る。

砂漠のバラ アンモナイトとオウムガイ モロッコ絨毯 鍛冶屋
雇用者の半分以上が、カサブランカに集中していて、貧しい地域からの流入が激しい。カサブランカ
の中心地から少し離れた大きな墓地には、地方から来た人々がバラックを建てて住みついており、そん
なバラックにもパラボラアンテナが立っていて何だか哀しい風景だった。旅行中、私たちのツァーと共に
ずっと一緒に廻った公式ガイド氏は、大学出のエリートだが、失業率や平均所得を聞いても、はかばか
しい答は返って来ない。「モロッコ政府は、そういった統計は取っていない」と言うばかりである。議会が
あるとはいえ、立憲君主制で国王が行政権、三軍の統帥権、国会での法令制定の拒否権を持つお国
柄だから、都合の悪い数字は公表しないのだろうか。古いデータでは、都市部に住む15歳〜24歳まで
の若者のうち、失業者は30%を超えているそうだ。
あばら家のパラボラアンテナ春哀し
買い物はゲームと思え

ここまでの教科書調改め、いつもの夢子風に行きます。この旅で、最も熱中したのは買い物であった。
普段の自分は買い物がキライだ。面倒なのだ。だから、洋服などはサイズが合ってまずまず気に入ると
「何色あるの?5色?じゃ、それ全部」と言って一度の試着で済ませて来た。昨今はそれすら面倒で、大
半は通信販売である。それが、ガイドがこう言ったのだ。
「モロッコでは、商品に値札はない。すべて商人との交渉である。交渉をして納得がいけば、買えばい
い」と。げっ!いちいち交渉するぅ?普通に買うのだけでも面倒だという人間に、それは余りにコクだ。お
土産も買わねばならないし、自分用にもいくつか買いたいものがあるのだが、そんな面倒な方法では買
う気が失せる。しかし。しかしである。いやいやながらに、交渉&買い物をしているうちに、すっかりモロッ
コ風買い物にハマッテしまったのである。
店の中をぶらつく。ふと何かが目に止まり品物を手に取ったとする。そこへす〜っと店員が近づいて、
二カッと笑う。そこで「ハウマッチ?」と質問。モロッコの通貨はディラハム(DH)で1DHは、昨今の円の
低下で12円になったが、10円と思えばいい。彼は「100DH」とぬけぬけと言う。「ふんっ」と軽くいなして
帰ろうとする。彼は慌てて「ハウマッチ?」。そこで、私は、「う〜ん、10DH」。彼は手で「それじゃあ、僕
はクビになっちゃうよ」という感じで自分の首を手で切るフリをする。で「90DH」、私「15DH」。彼「80
DH」。私「20DH。・・・・・・・・・。こんなことを延々と続け、最後に売り手が「ビンボープライス○○DH」と
言って、だいたい30〜50DH当たりで両者手を打って、めでたく握手。料金の決着には、「じゃ、その値
段でいいから、これも付けてね」」と客が申し出る場合もあるし、売り手が「その値段にまけるから日本の
ボールペンくれよ」というおねだりが出ることもある。日本のボールペンは何だかとても人気が高い。用意
の良い人は100円ショップで5本100円のボールペンを買って来ていた。私はボールペンの持ち合わ
せが無かったので、ハイライト1本をその道具にした。100円ショップのボールペンだって1本20円だけ
ど、ハイライトなら1本12円50銭だ。こんな交渉ごとが、数万円の銀製品を買う時も、200円の置物を買
う時も繰り広げられる。
今回のツァー参加者は22名。多くの方と親しくなったが、買い物交渉の場は、それぞれの性格が明
確になって、それも興味深い。私は、仕事で値引き交渉などやったりやられたりで経験はある。だから、
大胆な始値を出し、強気で買い物を進める。おっとりしたSさんは、100DHに最初から80DHなんて言
ってしまうから、高い買い物をしている。そんな様子を我慢できずに、交渉場面に割り込んで代わりにガ
ンガン値引きしてしまう。一番粘ったのは、M夫人。もうバスが出ますよ〜というギリギリまで粘って、店の
人の焦る気持ちを利用して安い安い決まり値にしていた。買い物後のバスの中は「これは最初いくらだ
ったのを、これもつけていくらにした」という買い物自慢大会と化す。良い買い物をしたとほくそえむ人も
いれば、失敗したとがっかりする人もいて面白い。買い物はゲームになる。勝ったと客を喜ばせておいて
間違い無く店の方も満足しているに違いないのだけれど。例外的にフィックス値段の店にいくつか行っ
たが、購買欲が極端に落ちた。だって、一律5%オフで交渉ゼロなんかでは、買い物の妙味が無くてつ
まらないのだ。そんな買い物をずっと続けていたら、帰国後、成田のタクシーの運転手につい値切って
いる自分がいた。
今回のツァーでは、何軒か「外人観光客ご用達」のような店に何軒か行った。自由に店を選んで買え
る国なら、そういった店では私は買い物をしない。店の人間が巧みな日本語を使って、その気にさせる
のを冷静に眺めているだけだ。しかし、モロッコでは面白いから売り込みのショーも買い物も楽しんだ。
フェズのメディナ(旧市街)のスークの中で昼食を取った。食後のミントティは隣の店で出ますというの
で、移動するとそこはモロッコ絨毯の売り場。レストランが絨毯屋もやっているのか、絨毯屋がレストラン
を併設しているのかはわからなかったが。「何だ、こうゆう仕掛けかよ」と誰しもシラケたが、そこに見事な
日本語を話すハンサムな店員が説明し始めたので、暫くは許すことにする。

熱弁をふるう絨毯屋のバイリンガル氏 化石屋には年代別の説明図
「モロッコ絨毯は、ウールで出来ています。だから、ペルシャ絨毯に比べたら安いです。安くても、全
部手作りで、とても時間をかけて作ります。ウールは、全部自然の植物で染めます。赤はポピー、オレン
ジはヘンナ、黄色はサフラン、青はインディゴ、全部植物で染めています。あの模様は(とある絨毯を指
し)ベルベルブルーで、ベルベル人独特の模様です。それでは皆さんに素晴らしいモロッコ絨毯のお勧
め品をお見せしましょう。これは、年代モノで35万円です。次は・・・・・・・・」と、助手に次から次へと絨毯
を広げさせては、立て板に水の説明をしていく。みんなジッと見ているだけで、買う気配はない。一番大
きな絨毯から徐々に小さくなって、ついに大きな玄関マットのサイズまでになった。新しい絨毯を出す前
に、畳むとこんなに小さくなる、というパフォーマンスも忘れない。この当たりで「それいくら?」の声。する
とあちこちで商談が始まり英語、仏語、日本語チャンポンの太った愛嬌ある社長が出て来て活躍する。
「ビンボプライス シルブープレ」「ノンノン、ビンボー値段」の応酬を重ねて、約10枚の小さな絨毯が売
れた。買ったかって? はい、私も将来住む大きな家(?)のために、大きな玄関マット買いましたよ。1
万8千円。エルフードの化石屋も、マラケシュの香辛料屋も負けじと頑張り、楽しかった。
カオスの迷路メディナ・スーク

フェズとマラケシュのメディナに行く日を楽しみにしていた。両方が世界遺産に指定されているから、と
いう訳ではない。とにかく形容し難い魅力があるというのだ。旅の3日目、フェズのメディナに向かった。
フェズは3つの地区に分かれている。旧市街フェズ・エル・バリとユダヤ人街のフェズ・エル・ジュディド、
そして新市街。フェズ・エル・バリは、9世紀の始め、最初のアラブ王朝イドリース朝の首都となったフェズ
に建設されて以来、この地で商業の中心となっている。大きな城壁に囲まれた中に、細い路地がうねう
ねと曲がりくねり、意外に起伏もあって膨大な小さな店を呑みこんでいる。一体何軒の店があるのか。店
には番号がついていて、1万5千の番号を見た人はいるが、答えは不明だ。フェズ・エル・バリとフェズ・
エル・ジュディドでフェズの半分近い人が仕事場と住居を兼ねて住んでいるというのだが、それも定かで
はない。
たくさんある門の近くでバスを降りると、いきなり羊の頭がずらっと並んでいて、思わず目をそむける。
門から細い路地を進むが、匂いも凄い。細い路地の両脇には溢れる商品を並べた小さな店が延々と続
く。商店街の人々、買い物客、私たちのような観光客、ここに住む子供達・・・・、夥しい人々が縦になっ
てよろよろと歩き、走り周り、叫び、生きている。公式ガイドが必要な位の迷路で、前の人を見失うと心配
でならない。ここはさっき通ったではないか、いや初めてか、あらっ? どこかで先頭が曲がったのか、な
どと思いつつ、店の商品を、店主を、歩く人の表情を、転ばないように足元を見ながら歩くのだから忙し
い。雑多なようで、街は商品ごとにまとまっていて、生きた鶏が足を縛られて売られているコーナーを過
ぎると野菜や果物屋が続き、ジュラバやカフタンの衣料品、木工品、真鍮、爪先が反り返ったバルーシ
ュと言うスリッパ、靴、仕立屋、貴金属、蝋燭、香辛料、パン、おもちゃ、菓子、オリーブ、エスカルゴ、皮
革製品などが一塊となって店を開いている。スークに入った時の獣臭さも商品が代わると匂いも変わっ
て来る。木工屋では、その場で家具を作っていて、婚礼用の豪華絢爛キンピカの椅子が完成間近だっ
た。その値段は月給の数倍とかで、ダイヤモンドメーカーの何ちゃらという会社が映画館で「婚約指輪は
月給の何倍」と言って喧伝し、まんまと引っかかったのは、ブラジルと日本だけだったという話に似ている
ね。しかし、一説には、モロッコでは離婚率が5割を超えるらしいから、高額の結納金も合わせるとモロッ
コの男も大変。だから結納金を支払えないビンボーな男は、結婚出来ないことになる。で、外国人女性
なら「タダ」だからと、すぐ結婚しようと言うのだと聞いた。本当かしらね。
子供達は、我々を見ると「こんにちは〜」と「に」にアクセントをつけた挨拶をする。みんな「こんにちは
〜」。一目見て日本人と察する。ま、中国や韓国の人は今のところ殆ど来ないから、アジア風なら日本人
で間違いないのだろう。子供達は挨拶だけの場合もあるが、本心はキャンディやお金も欲しい。シッカリ
者の子供は観光客からセシメタ菓子を、売っているのだとか。子供はまぁいい。困るのは大人だ。皮の
財布、おもちゃのような楽器、駱駝の人形のどれかを手に、観光客に纏わりつく。「100DH、千円、10ド
ル」「100DH、千円、10ドル」「100DH、千円、10ドル」を何度も何度も繰り返して、纏わりつく。手を振
って要らない、なんて言ってもぜ〜んぜんお構いなし。見もせず、毅然と無視なんかしても全くお構いな
し。「うるさい! あっち行け!」と怒鳴っても、ちっともお構いなし。もう、ゲンナリして買ったとする。する
と別の商品を持ったおじさんが纏わりついて、「100DH、千円、10ドル」を繰り返すのである。でなけれ
ば、客の仲間に「あのマダム買った、あのマダム買った」とお買い上げモデルにされてしまう。逃れように
も、こんな狭い路地じゃあ、無理だわね。それでも買わない客には「ビンボー!!」と捨て台詞。そんな
時、後の方がザワザワとして男の大声が響く。「バーラック! バーラック!」。振り返ると、大きな荷を乗
せたロバのお通りだ。人々は慌てて両脇に散って壁に張り付く。ロバを引いた男が急ぎ足で過ぎ去る。
こんなことはしょっちゅうなのだ。バーラックの身の危険、強引な押し売りの煩わしさ、子供達の頂戴攻
勢、迷子になる不安、スリもいるという懐中モノへの緊張を抱えながら、それでもこのエネルギッシュなス
ークを楽しむのだ。


これがバカ高い婚礼用の椅子
店の規模は大きな所も何軒かあったが、多くは極めて小さい。間口1メートルちょっとの店が大半だ。
店に入るドアも無いので裏に出入り口でもあるのかと思いきや、カウンターの商品をちょっと片方に寄せ
て、オッコラッショとカウンターを飛び越える。体操の鞍馬で両足を揃えて飛び越えるワザがあるが、あれ
をゆっくりやる感じ。入るのも出るのもそうやる。この日は、イスラム暦でいう新年の正月期間なのだそう
で、おもちゃ屋にはたくさんの商品が並んでいた。新年だけは子供達もプレゼントとしておもちゃを買っ
て貰えるらしい。堂々日本のピカチュウも人気者であった。イスラム暦元年は太陽暦622年で、ムハンマ
ド(モハメット)が迫害されメッカを追われ、ヤスリブ(のちのメディナ)というオアシスに移り住んだ年だとい
う。イスラム暦は1年354日なので、いわゆる新年というのが、少しずつズレて、長い間で考えると四季の
どこでも新年になる可能性がある。しかし、祝祭日などの日は決まっているが、太陽暦とイスラム暦がず
れてしまうので、本年で言えば、1月1日は3月27日、3月12日のモハメッド生誕祭りは6月4日、断食
のラマダン9月1日は11月14日頃、同じくラマダン明け10月1日は12月15日頃ってな具合になるんだ
ってさ。海外の人と日を設定したりする時は、太陽暦使わないとならないし、2つの暦を使いこなすのは
大変だ。そうゆうことで3月27日が1月1日だったので、未だお正月気分ということらしいのです。
地面がジメジメした路地を進みに従って、強烈な匂いが鼻をつく。ナンダ!この匂いは。そこでガイド
氏大量のミントを買って我々に配り始める。益々キツクなる匂い対策にミントを鼻に当てながらなめし皮
染街・ダッバーギーン(フランス語でタンネリ)に行くのだ。いやはや表現に迷う強烈な匂いだ。ある建物
の狭くキツイ階段をどんどん登っていくと、屋上に出る。そこから眺めた景色は、匂いを忘れる感動的な
ものだった。色とりどりの丸い染色桶がずらりと並び、その中に多くの職人がすっぽりと入って作業をして
いる。近くの建物の屋根には染めた皮が並べられ乾かされている。奥の方では運ばれて来た皮の毛を
取っている姿も見える。中世以来の同じ作業なのだと。覗き込むと、匂いは更に強烈に。ずっと見ていた
いが、段々我慢が出来なくなる。添乗員氏は、ミントの葉を鼻に突っ込んでしまった。暑い日向でぼ〜っ
としている大人もたくさんいるけど、こうした環境でツライ仕事をしているモロッコ人もいるのだなぁ。

メディナの中は、スーク(市場)ばかりではない。14世紀に建てられたブー・イナニア・マドラサやアッタ
リーン・マドラサの神学校、ザウィア・ムーレイ・イドリス廟の修道院、カラウィーン・モスクなどがあり、メディ
ナの中に街としての施設が整備されていたことがわかる。フェズはモロッコで一番古い都だが、今でも学
問や芸術が盛んと聞く。絨毯屋の従業員の自宅にお邪魔した。昼間なのに真っ暗な狭い路地をくねく
ね曲がり、急な坂道を登ったところに、その家はあった。家とは言ったが、間口2メートル位の粗末な入り
口を入っていくと、何と300年前に建てられたアンダルシア風の堂々とした室内。家の中心には、およそ
3階建て程の高さの居間が屋根まで吹き抜けになっていて、明かりは屋根から取っている。外の喧騒が
嘘のように静かで、かつ涼しい。居間を真ん中に寝室が2つあり、1つは絨毯屋さん夫婦の部屋、他方
はお母さまの部屋。そしてトイレと小さな台所。主婦グループは、ぞろぞろと台所に入って見学させて貰
う。中産階級でないと、こんな家は買えないらしい。ここでも、ミントティの淹れ方を教わりながら、ご馳走
になる。

アッタリーン・マドラサの神学校 カラウィーン・モスク 絨毯屋の従業員氏自宅
喧騒のフェズのメディナに春日陰
一方マラケシュのメディナは
最初の王朝イドリース朝の首都はフェズだったから、フェズが一番の古都である。続いて出来たムラー
ビト王朝はマラケシュを首都にした。だから2都は、日本で言えば奈良と京都のような存在かもしれな
い。それぞれの街は以降3回づつ首都となっている。そのマラケシュにも、とても有名なメディナがあり、
双方が世界遺産に指定されている。南北に13キロ、東南に8キロの城壁の中にメディナ(旧市街)があ
る。メディナの南部分には史跡地区と呼ばれる王家の霊廟や王宮があるが、ここでは中央から北のスー
ク(市)の話を。フェズでは商店と住居が混在していたが、マラケシュでは完全に分かれている。だから2
500軒あるスークは、夜は無人になるそうだ。城壁を入ると、まずは住宅地で、日本で言えば銭湯に当
たる「ハンマーム」という公衆浴場があったりする。このハンマーム、時間帯で男湯、女湯となるが、男→