パクパク日記6年6月1週

          1ヵ月ぶりのウィーンは、寒くて雨が多うございましたのよ おほほほ

シシィのシルエット  美術史博物館

5月 29日(月) 曇り 時々小雨

朝 デュルンシュタイン「RICHARD LOWENHERZ」 朝食ヴュッフェ+お粥、しば漬け、味噌汁、日

     本茶

  

  

       ホテルからも聖堂参事会修道院教会が見える          ドナウ河の流れ      「RICHARD LOWENHERZ」内部

昔女子修道院だったホテルだから敬虔な気持ちで目が覚める。なーんてウソだよん。昨夜も足が攣っ

て朝になっても痛い。今日の朝食には、添乗員のTさんが持参したお粥、味噌汁、しば漬け、緑茶が振

る舞われた。味噌汁のお湯加減を調理場の人はわからなかったらしく、濃すぎてゴトゴト。紅茶用のお

湯で薄めたら丁度よくなった。お粥は2杯食べてしまいまったー。ここは廊下なども時代がかっている。

ホテル前の広場からミニ電車のような乗り物で村を一周し、ドナウ河沿いの駐車場へ。バスで移動だ。

昼 ウィーン 「JOHAM IM KURSALON」 カリフラワークリームスープ、カワカマスのフィレ 温野

   菜添え、パン、パフェ仕立ての苺

  

                正面建物がランチを摂ったKURSALON         市立公園の中のヨハン・シュトラウス像

デュルンシュタインはウィーンからの日帰り圏内とあって近い。ランチを摂るレストランに早く着き過ぎて

もと途中ゆっくり休憩して行ったが、それでも11時半には到着してしまった。市立公園にあるクアサロ

ン。ヨハン・シュトラウスU世はこの建物で何度もコンサートを開いたそうだ。彼の像もすぐ近くにある。

          ハプスブルグ家の夏の宮殿だった世界遺産のシェーンブルン宮殿とその庭園

ウィーンに来れば良い天気になるかもしれない、と一縷の期待をかけたが今日も曇天。時折ポツポツと

雨が落ちて来る。昼食後は郊外にあるシェーンブルン宮殿に向かった。ハプスブルグ家の夏の宮殿で

世界遺産にも登録されている。16世紀後半、狩猟の館としてハプスブルグ家が領地としたが、近くに美

しい泉(シェーナー・ブルンネン)が湧いているのを見て、シェーンブルンの名をつけたそうよ。何度か建

築、戦による破壊、再建、改築を繰り返し、現在の宮殿がある。部屋数1441室、ヴェルサイユ宮殿を

持つブルボン家に「どうだ!スゴイだろ!」と立派な宮殿を作ってしまったのですな。内部は撮影禁止

で、豪華絢爛な内装をお見せできずに残念である。マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットも15

歳まで夏はこの宮殿で過した。そうそうナポレオンもウィーンに攻め入った時はここを宿舎にしたのだ。

広い庭園の一番奥の丘には、戦いで命を落とした臣下を忘れまいと築かれたグロリエッテが見える。そ

の手前には特設ステージを作っている最中だった。聞くと62日にウィーンフィルをドミンゴが指揮す

るコンサートがここで開かれ、しかも無料だと言う。2日って私達が成田に着く日。えーん。残念だよー。

夜 グリンツィング・ホイリゲ「ALTES PRESSHAUS」 野菜のポタージュスープ、サラダ、ミック

     スグ リル(ソーセージ、ローストポーク、ヴィナーシュニツェル)、ザワークラフト、チーズパイ、ビール、

     白ワイン

  

  

雅なものを観た後は、思いっきり庶民的な食事にしようじゃないか、という配慮か夕食は郊外のグリン

ツィングという村に行った。ウィーンは市内にも葡萄畑があり、主に白ワインを生産している。ホイリゲと

は「今年の」という意味と「今年収穫した葡萄と作ったワイン」、そしてその「ワインを飲ませる居酒屋」の

3つの意味がある。グリンツィングには、そんなホイリゲワイン酒場がたくさんあり、小雨降る中出かけ

て行った。酸味の強い白ワインを飲みながら、大皿に盛られた焼肉やザワークラフトを取り分けて食べ

る。あちらの部屋からは賑やかな演奏と歌声が聞こえて盛り上がっているぞ。そのうち、私達のテーブ

ルにもヴァイオリンとアコーディオンのおじさんがやって来て、「オー!ブレネリィ」、「幸せなら手を叩こ

う」なんて曲を次々と演奏する。ワインで気持ち良くなっているからこっちも歌う。大声で。楽しい夜だ。

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5月 30日(火) 曇り後雨

朝 ウィーン 「ヴィエナ・ヒルトン」 朝食ヴュッフェ

  

昨夜からヴィエナ・ヒルトンに泊まっている。ここに3泊する。4月に泊まったインターコンチネンタルと市

立公園を挟んで反対側にあるホテルだ。6時半朝食レストランに行くと、JTBのグループが早朝出発ら

しく急いで朝食を摂っていた。私達も最終日は同じような出発時間だ。ハッシュドブラウン2つ食べる。

  

                 シュテファン寺院内部           シュテファン寺院(南塔と北塔が右手に聳える)

朝食後、シュテファン寺院に行く。12世紀から造成は始まった。137メートルある南塔は65年かけて

1359年完成した。日本では足利時代ね。65メートルの北塔は未完成でエレベーターで上って行くこと

ができる。カトリックの名教会らしく、中は豪華にして荘厳。ピルグラムの説教壇が見事だった。教会を

出てライン運河まで歩いて行く途中、ギリシャ教会の隣にウィーン最古のレストランがあった。今も営業

しているのかは定かではないが、かつてこの店にモーツアルトもベートヴェンも食事に来たと聞いた。

        ベルヴェデーレ宮殿上宮全景                   宮殿から見た「美しい眺め」の通りの眺望

  

         大理石の間          オーストリアの独立を認める記念プレート    クリムトの作品が展示されている

次はベルヴェデーレ宮殿上宮。ウィーンは2度に渡ってトルコ軍から攻められたが、2度目に包囲され

た時、見事にトルコ軍を追い払ったのがプリンツ・オイゲン公。無名の20歳の青年だった彼はレオポル

ドT世に売り込みに成功し、34歳で皇帝軍総司令官としてトルコ軍を撃破する。オイゲン公は英雄とな

った。そしてこのベルヴェデーレ宮殿上宮を築いたのである。豪華な入り口から2階に上がると大理石

の間があり、その床に51年前オーストリアが独立国として認められたプレートが嵌めこまれていた。そ

の隣から1920世紀美術を展示したオーストリア・ギャラリーが始まる。何と言ってもここの目玉は世

紀末の代表画家と言われるグスタフ・クリムト。「ユディトT」、「アダムとイブ」、そして「接吻」など官能

的でクリムト独得の美の世界に溜め息。しかし、新聞でも報道された所有権を巡る裁判の結果、「アデ

ーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」等5点は既にこのギャラリーには無い。政府は400億払わなかった

のね。シーレの「死と乙女」はどこかにお出掛けなのか展示されていなかった。ここは撮影禁止だす。

昼 ウィーン 「ALTWIENERHOF」 クリームスープ、鶏の胸肉アーモンドグリル ライス添え、フル

      ーツサラダ

  

ウィーンの現地ガイドのT島さんは、やたらと美術に詳しい。美術の留学に来てそのままウィーンに住

みついてしまったのかしら。ギャラリーで彼の溢れる知識を延々と聞かされて頭は爆発しそう。じゃ、お

昼だ。西駅近くのホテルのレストラン。何だか料理の色も味も曇天のようで、食欲が沸かないのだよ。

  

      ハイリゲンシュタットにある「遺書の家」       ベートヴェン胸像              この家で書かれた遺書

  

      交響曲3番「英雄」の自筆楽譜のコピー        「田園」の構想を練ったと言われるベートヴェンの散歩道

昨夜ワインを飲みに行ったグリンツィングを通り過ぎてウィーンの森にバスを走らせる。ウィーンの森は

ウィーンの町の3倍の面積、ベートーヴェンが住んだ場所でもある。彼は生涯70回も引越しをしたと言

われる引越し魔だったそうだが、北に位置するハイリゲンシュタットもその一つ。ベートーヴェンはドイツ

のボンに生まれ、22歳からウィーンに移り住んでいる。28歳から難聴に悩まされ、ハイリゲンシュタット

に来たのも医者の勧めがあったから。ところが聴力はいっこうに回復せず、180434歳の時、弟に宛

て遺書を書く。その遺書を書いた家が博物館になっている。「遺書の家」だ。遺書のコピー、デスマス

ク、遺髪など、別館には自筆の楽譜コピーなどが展示されていた。ナポレオンに捧げるつもりで作曲し

た交響曲3番だが、ナポレオンが皇帝に即位したことで絶望し「献呈」の文字をグチャグチャに消した跡

もあった。近くに彼がよく散歩したという「ベートヴェンガング」。鬱蒼とした散歩道には雨が降っていた。

夜 ウィーン 市庁舎「RATHAUSKELLER」 ウィーン風スープ、パン、サラダ、ヴィナーシュニッツェ

     ル ポテト添え、カイザーシュマレン、ビール、白ワイン、赤ワイン×2 計16ユーロ

  

  

オペレッタ好きの私は、事前にフォルクスオーパのチケットを確保していた。「ジプシー男爵」で5列目

の真ん中という絶好の席である。ただ、昨日あたりから「メンドクサイ」と思い始めた。せっかく本場で観

る機会なのに、と思いながらどうにもこのメンドクサイ病が頭にこびり付いて。結果、同じツァーのY

さんにチケットは差し上げて、市庁舎のレストランのカンタンコンサートディナーに出かけた。モーツアル

トのアイネ・クライネ・ナハトムジークや魔笛のアリア、オペレッタなどを聞きながら、ヴィナーシュニツェ

ルをぱくぱく、ワインをがぶがぶ。デザートのカイザーシュマレンは「皇帝のナンセンス」という名前でフ

ランツ・ヨーゼフ帝の好物だった。場内各国からの高齢旅行者ばかりで上の席から見ると壮観だった。

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5月 31日(水) 晴れ ながら時々小雨

朝 ウィーン 「ヴィエナ・ヒルトン」 朝食ヴュッフェ

  

珍しく寝坊して7時起床。レストランで、オムレツを焼いて貰った。オムレツは、手早く卵を掻き混ぜてあ

っという間に作るのが常識だと思っていたのに、ここはホットケーキを焼くごとくじっくり焼き、しかもオー

ブンで温める。パンケーキのようなオムレツが出来上がった。今日もハッシュドブラウンを2つ食べる。

 ゆったりソファにかけて名作鑑賞      美術史博物館の前庭広場にはマリア・テレジア像      優雅なカフェ

  

   ベラスケス「青いドレスのマリガリータ王女」  ブリューゲル「雪中の狩人」

今朝起きた時、空が青かったので思わず「キャッホー!」と叫んでしまった。それほど晴天に恵まれな

かった旅なのだ。きっと暑くなるぞ、と傘を持たず軽装で出かけたのに、何とまた雨が降って来たではな

いか。空は青いのに降る雨。狐の嫁入り?マリア・テレジア像を広場の真ん中に、美術史博物館と自

然史博物館が向かい合っている。午前中は美術史博物館で名画の数々を鑑賞する。この美術史博物

館は、最初から美術館として設計された。よって、入り口から展示室に行く階段の作りからしてチャウ。

これから名画の世界にお連れしますねー、って感じの序曲が奏でられるように演出されている。1階か

ら3階まで吹き抜けのカフェやゆったりしたソファが置かれた展示室など隅々まで計算し尽くされてい

る。豪華絢爛である。ティツィアーノ、ベラスケス、ラフェエロ、フェルメール、レンブラント、ルーベンス、

ブリューゲル・・・。ベラスケスはマリガリータ王女が3歳、5歳、8歳の肖像画が3点揃って展示されて

いる。ここはいつも同じ絵画が展示されているわけではなく、保存状態を考慮して展示の入れ替えも行

われている由。幸運だった。8歳の青いドレスのマルガリータは、素直そうな愛らしい表情で、彼女が実

の叔父と結婚させられ21歳の若さで亡くなったと聞くといとおしさも倍加する。ビロードのドレスの光沢

がスゴイね。ブリューゲルはブリュッセルの美術館でも観たが、ここは最も多く収蔵している。「雪中の

狩人」や「農民の婚礼」はマジマジと観たが、「バベルの塔」では真ん前で模写している人がいて邪魔。

昼 ウィーン 「天満屋」 刺身(鮭)、焼魚(鮭)、野菜の煮物、ひじき煮、野菜の天麩羅、ご飯、たくあ

   ん、味噌汁、オレンジ、ほうじ茶

  

名画に酔いしれた後は久々の和食だ。岡山のデパート「天満屋」がウィーンの繁華街でレストランを開

いている。鉄板焼コーナー、鮨コーナーを抜けて奥の座敷へ。ウィーンで靴脱ぐとは思わなかったよ。

ツァーの皆さんもテーブルに並べられた料理を見て「わーい」って感じ。でも、刺身も焼物も鮭では飽き

る。刺身は残した。海の無い国では生魚を入手するの大変だろうね。おっ!お昼から燗酒ですかぁ?

午後のお茶 ウィーン 「AIDA」 メランジェ 2,5ユーロ

  

    ミヒャエル広場から見た王宮              皇帝の部屋とシシィ博物館         シシィことエリザベート王妃

  モーツアルト生誕250年のポスターが街中に溢れる       「ボクをダシにそんなに儲けないでよ」と言っているみたいね

午後からフリータイム。雨なら部屋でゴロゴロしていよう位の無計画であったが、王宮に行くという人達

について行く。ミヒャエル門から8,9ユーロ払って日本語イヤホンを借りる。まずは銀器コレクション。王

室が実際に使用した銀器、陶器、ガラス、ナプキン、燭台などが部屋毎に展示されていて溜め息が出

る。続いて皇帝の部屋とシシィ博物館。シシィとはフランツ・ヨーゼフ帝の妃エリザベート皇妃の愛称で

ある。従兄弟の皇帝に一目惚れされて15歳で嫁いだエリザベートは、身長172センチ、体重50キロ

しかも踵まであった髪だけで5キロ!)、ウェスト50センチのプロポーションを保つためにあらゆる努力

をしたそうよ。反省・・・・。ダイエットの限りを尽くし、冷水浴、マッサージ、器械体操。シシィの部屋には

体操の器具も展示されていた。王宮の堅苦しさを嫌って、シシィは度々旅に出たが、61歳の時スイスで

暗殺されてしまう。王宮のショップにはシシィ商品が幅をきかせていた。天気はすっかり回復して風は

強いが青空が美しい。街をぶらぶら写真を撮りながら歩く。町中モーツアルトのポスターで溢れている。

ウィーンはカフェの発祥地。一服しがてら小さなカフェに入った。メランジェはホイップクリーム一杯だ。

 ウィーン 「ヴィエナ・ヒルトン」 兎肉のサラダ、人参スープ、サーモンのフィレ ライムソース、

  ザッハートルテ、ビール、白ワイン、赤ワイン計19ユーロ

  

  

いよいよウィーンとオーストリア最後の夜である。ホテルのレストランであったが、一応フルコースの夕

食。飛行機会社変更のお詫びの一環だそうだ。兎肉は、小学校の給食で何度か食べたことがある。1

月に行ったマルタは一番のご馳走が兎肉のシチューだと聞いた。人参のスープは飛び上がる程甘い。

人参の甘さだけ?塩胡椒を入れて何とか。昼鮭だったのに夕食も!半分。デザートはとても旨かった。

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6月 1日(木) ウィーンは小雨

朝 ウィーン 「ヴィエナ・ヒルトン」 朝食ヴュッフェ

今日は715分出発である。5時に起きるつもりが4時に起きてしまったので朝風呂に入る。荷物ま

とめて朝ご飯。開店前にレストランに行くと、並んでいたのは全員日本人だった。15分で食べ終える。

 スイス・インターナショナル・エアラインズ ウィーン=チューリッヒ間 おやつと水

スイス・インターナショナル・エアなので成田までの直行便は無い。オーストリア航空ならあるのになぁ。

夜 スイス・インターナショナル・エアラインズチューリッヒ=成田間 ビジネスクラス機内食 

  

ビジネスクラスはガラガラだった。1時間ごとに席替えてもいいくらい。ジャパニーズ・フードは数が少な

いらしいのだが、空いているのでOKだった。鮨は半分凍っていた。歯が冷たい。酒をたくさん飲んだ。

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6月 2日(金) 東京は曇り めっちゃ蒸し暑い

朝 スイス・インターナショナル・エアラインズチューリッヒ=成田間 ビジネスクラス機内食

    順番から言えば夕食だが、飛行機では朝食になる

都内のバスや地下鉄ではよく眠れるのに、長距離の国際線の飛行機に乗ると眠れなくなっちゃうのは

どーしてだろうね。今回も最初の食事というか、お酒をたくさん飲んだ後ちょっとウトウトしただけ。あと

はパッチリ目が開いている。本を読んでいた。午前7時20分成田着。12日前、第二ターミナルから出

発したが、本日62日からANAを初めとするスターアライアンスグループ会社の飛行機はすべて第

一ターミナルに到着する。今日が第一ターミナル南ウィングのグランドオープンなのだ。長い長い通路

を歩かされ、ようやく辿りついたイミグレーションは長蛇の列。長旅の疲れがドッと増すターミナルだな。

昼 四谷三丁目 「東風汁緬屋本店」 素菜湯麺(細麺) 800円、杏仁豆腐 50円

  

成田からのタクシーは1時間かからずに家に着いた。仏壇の両親に帰国の挨拶をした後は早速スーツ

ケースを開けて荷物の片づけと洗濯大会。留守電を聞き、230通の未読メールに目を通す。宅配便の

不在表もたくさんある。海外から帰った日は、疲れて眠いのに忙しいものよのう。さて、次はランチがて

らスーパーに買出しだ。それにしても暑い!湿度100%あるのじゃないか?ムシムシしてたまらんぞ。

そんな日なのに素菜湯麺を食べる矛盾した自分に呆れる。シュニッツェルもいいけど、やっぱ麺だよ。

夜 家食 そーめん、野菜のかき揚げ、薬味(きゅうり、油揚げ、みょうが、ネギ、大葉)

  

そうだ!アメフットの準決勝結果はどうだった?ネットでチェックすると・・・逆転負けしていた。ガクッ。夕

食はそーめん。こんな高温多湿の日にはぴったりだ。2食続けて麺という点は蒸し、じゃなくて無視。薬

味をたくさん用意してたれも2種類。ちゅるちゅるー、ちゅるちゅるー。ニッポンの夏はそーめん。無酒日

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6月 3日(土) 曇り 一転涼しいよー

朝 家食 煮麺、アロエヨーグルト

昨夜ぎりぎりまで起きていた。一昨日5時に起きてから36時間半経った12時半に寝た。その間飛行

機の中で1,2時間ウトウトしただけ。こうやって日中や夜早い時間に眠いのをガマンするのが、私流の

時差ぼけ防止策。しかし、夜中に夢を見て目を覚まし、大笑いした。職場の仲間と某国の屋敷を借りて

パーティの準備をしている。その采配を取っていて忙しい私の旅行用バッグが開いていることにある時

気づく。パスポートが無い!ユーロもドルも円も盗まれた!大騒ぎする私に職場の皆は冷たい。「警察

に届けてもどーせ出て来ませんよ」と言い放つ。その時、親切によって来た男性が「お金でしたら、私の

銀行で用意させますよ。それにパスポートも私程のVIPになれば1日で再発行できますよ」と言う。男

性の顔を見たら、村上ファンドの村上氏であった。夢ってこれだからおかしい。朝食ソーメン煮て煮麺。

昼 流通センター 「カヌー」 カレーセット、サラダ付き、アイスコーヒー 750円

午前中来るハズの宅配便を待っていたが、1150分になっても来ないので出かける。浜松町からモノ

レールで流通センターへ。入り口でイトミと待ち合わせ、バーゲンの入場券を貰う。もう20年以上来て

いるレナウンの株主招待のバーゲンである。私の場合、特に買いたいものがあってバーゲンに行くわ

けでもない。何となく行く。買いたいものがあれば買うか、という軽い気持ちである。しかし、帰りは持ち

きれない程買っている。軽い気持ちで重い買い物。今日もレジの人が数えたら27点あった。遅い昼は

浜松町でと思っていたが、急に空腹を感じ「カヌー」。喫茶店だが、周囲が不味い店なのでまぁいいか。

夜 家食 親子丼弁当、アボガドとトマトのサラダ、「吉兆」の黒豆、味噌汁

  

浜松町の駅ビルでお弁当が安かったので買った。親子丼弁当が380円なのだ。バーゲンで散財したか

ら夕食は粗食でね。あらあら、このアボガド若過ぎて硬い。「吉兆」の黒豆はさすがに柔らかだ。無酒日

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6月 4日(日) 曇り

朝 家食 マドレーヌなど焼き菓子、味噌汁、アロエヨーグルト

昨夜午前1時頃5月4週のパクパク日記を更新した。もう1週分作らねばならない。海外から帰って来

るとただでさえ忙しいのに、これが大きな負担だ。遊んで来たんだから仕方ない?まぁね。今日1時か

ら、マンション2年点検の一環で通風孔の清掃、エアコンの清掃などがある。ということは納戸を除けば

全部の部屋に入られるわけで、朝から掃除。エアコン6台あると掃除代も嵩む。朝食おめざのようだ。

昼 無し!

夕方のおやつ 四谷三丁目 「東京風月堂」 白玉クリームあんみつ、コーヒー 1439

  

清掃作業は3時間かかって午後4時終了。その間ずっと書斎に閉じこもっていたから昼飯食べ損なう。

夕方買い物がてら「東京風月堂」で甘いものを食べた。一応昼飯替り。以前は甘いもの嫌いだったが。

夜 家食 麻婆豆腐、沖きすの縄文干し、「吉兆」の黒豆、味噌汁、ご飯、苺

  

夕食の献立を決めずにスーパーに行く。突然麻婆豆腐を食べたくなった。長ネギどっさり刻み、最後に

花椒もたっぷりふりかける。まずまずか。10時からW杯直前の親善試合マルタ戦を観る。最初こそ良

かったが、だんだんアレレー?って展開で不安になる。こんな状態でオーストラリア戦大丈夫?無酒日

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【今週の振り返り】

長野県の大町小学校には、音楽室が3つあった。全校生徒2500人を越えるマンモス小学校だったか

ら3つもあるのだ。その一番大きな第一音楽室が好きだった。天井の高い部屋の壁には、クラッシック

の作曲家達の肖像画がぐるりと半円形に貼られていた。まずバロック時代のバッハ、音楽の父だ。次

はヘンデルで音楽の母。3番目はハイドンで交響曲の父と教わった。そして神童モーツアルト。みな銀

髪が巻き毛になった美しい髪型だった。昔の西洋の男性は美容院に毎日行ったのだろうかと感心して

いたら、全部カツラと聞いてガッカリした。古典派の楽聖ベートーヴェンからはカツラは無し。シューベル

ト、ショパン、リスト、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク・・・・。人類の歴史上250年から

300年間に作られた曲がクラッシック音楽として繰り返し演奏されている。それを作ったクラッシック音

楽の偉大な作曲家達。第一音楽室に行く度に、年代別に並べられた肖像画を穴が開く程順番に見て

いた少女であった。

ザルツブルグでヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが生まれたのは17561月27日のことだ。

音楽家だった父レオポルトは我が子の抜きん出た音楽の才能を早くから見抜いていたようだ。5歳で初

めて曲を作り、6歳でウィーンの宮廷に招かれてマリア・テレジアの前で演奏をした。演奏を終えたモー

ツアルトは、マリア・テレジアの膝によじのぼり、腕を首に回してキスをしたと言う。そして1歳上のマリ

ー・アントワネットに「結婚しよう」と申し出たそうよ。父親と一緒に各地に演奏旅行に出かけ、14歳の時

ミラノで初のオペラを作曲して指揮したというのだから驚くじゃありませんか。まさに神童であったのだ

ね。彼は、ザルツブルグを飛び出し、24歳でウィーンに移り住んで35歳で亡くなるまでウィーンで過し

た。先輩だったハイドンにも出会ったのだろうか。

一方ベートーヴェンはドイツのボンで生まれたが、10代の終わりにウィーンに出て来てモーツアルトに

会っている。モーツアルトに褒められたらしい。彼もまた22歳でボンを捨ててウィーンに移った。気難し

い人だったらしく、70回も引っ越したのも、騒音などの問題で家主と折り合いが悪くなることがその原

因だったとか。「遺書の家」にあったいくつかの胸像の一つは、ベートーヴェンが上目使いだった。彼は

良いアイデアが浮ぶと、盛んに目をぐりぐりと回すクセがあったらしいよ。ハイリゲンシュタットの「ベート

ーヴェンの散歩道」を目をぐるぐる回して「田園」の曲を考えていたのだろうか。彼は56歳で亡くなる時

「諸君、喝采を。喜劇は終わった」という名言を残した。

シューベルトがウィーンで生まれた時、モーツアルトは数年前に亡くなっていたが、ベートーヴェンは同

じウィーンにいた。そしてベートーヴェンもシューベルトも存命中に、ブルックナーもヨハン・シュトラウス

U世も生まれているのだ。この後、ブラームスもリストもウィーンにやって来る。こうしてみると、私が少

女時代に尊敬と憧れを持って見つめていた偉大な作曲家達が、ほぼ同時代、しかもウィーンという町

に暮らしていたことになる。頭の中ではぼんやりわかっていたつもりだったが、今週ウィーンで3泊した

ことでそのことが明確になった。改めてこの時代とウィーンという町の凄さに脱帽する思いである。多く

の音楽家、芸術家を吸い寄せたウィーンの魔力とは何だったのだろう。やっぱり、長い間栄華を誇った

ハプスブルグ家を無くしてそれは考えられない。功罪あろうが、こと芸術という面だけ考えれば、偉大な

ハプスブルグ家であったのだな、と思いながら帰って来た。これからDVDの「サウンド・オブ・ミュージッ

ク」と「アマデウス」を探してじっくり観ようと思う。

            僕はモーツアルトママの故郷の猫なんだニャ

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       * オーストリア旅行の1週目(54週)もご覧ください。  54 へ